小倉百人一首 歌順解説

001. 秋の田の 仮庵の庵の 苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ

秋の田のかりほの庵の苫をあらみ

「秋の田」は秋の季節になった田園風景を指し、「かりほの庵」は草を敷いてできた小さな仮小屋を表します。

「苫をあらみ」は、その小屋の屋根を草で覆った茅葺きの苫が乱れ散っている様子を描写しています。荒れている様子が感じられます。

わが衣手は露にぬれつつ

「わが衣手」は作者自身の袖や衣服を指し、「露にぬれつつ」は露に濡れている様子を表現しています。

この表現から、作者が小屋の中で仕事をしている最中に、袖が露に濡れていることが窺えます。

作者が自らの仕事に従事しながら、自然の中での営みを感じ取り、その中での懸命さや農作業の厳しさを表現しています。また、自然の中での日常の一瞬を通して、詠み手の心情や暮らしの一幕が詠まれています。

002. 春過ぎて 夏来にけらし 白妙の 衣ほすてふ天の香具山

春過ぎて夏来にけらし

「春過ぎて夏来」は春が過ぎて夏が訪れる様子を表現しています。

「けらし」は、「けり」の連用形で、過去の出来事を述べています。春が過ぎ去り、夏がやって来たことを述べています。

白妙の 衣ほすてふ

「白妙の衣」は清らかで美しい白い衣を指します。

「ほすてふ」は、風に衣を振り払う様子を表現しています。清らかな白い衣が風に揺れている光景が描かれています。

天の香具山

「天の香具山」は、歌の舞台とされる場所で、具体的な山の名前ではなく、神聖で美しい山を象徴しています。この表現から、歌の舞台は神秘的で荘厳な場所であることが伺えます。

春の終わりから夏のはじまりにかけての美しい季節を描き出しています。清らかな白い衣が風に揺れ、その美しさが神聖な山に映えている様子を通じて、自然の美と季節の移り変わりを感じさせる歌です。

003. あしひきの 山どりの尾の しだり尾の ながながし夜を ひとりかもねむ

あしひきの山どりの尾のしだり尾

「あしひきの山どり」は、山の中で集めた足跡と思われるものを指します。ここでの「山どり」は、山の中で行動する人々の活動や痕跡を示唆しています。

「尾のしだり尾」は、山の斜面や坂道のことを指します。足跡が山道に続き、山を登っていく様子が描かれています。

ながながし夜をひとりかもねむ

「ながながし夜」は、長く感じられる夜のことを指しています。作者が寂しい夜を過ごしていることが伺えます。

「ひとりかもねむ」は、「ひとり」で寝ること、「かもねむ」は「かも知れない」との意味が含まれています。つまり、作者が一人で寝る長い夜を迎える寂しさや不安を表現しています。

山の中での足跡が続く中、作者が一人で長い夜を過ごしている様子が描かれています。孤独や寂しさ、不安な気持ちが表現され、また、山の中の足跡が登る先には何が待っているのかといった不確かさも感じられます。

004. 田子の浦にうちいでて見れば白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ

田子の浦にうちいでて見れば

「田子の浦」は、駿河湾に面した浜辺や漁港のことを指します。

「うちいでて見れば」は、「出で立って見ると」や「歩いて出かけて見ると」の意味で、作者がある場所から外に出て眺めた様子を表現しています。

白妙の 富士の高嶺に雪はふりつつ

「白妙の」は、美しい白いものを指します。ここでは、雪を指しています。

「富士の高嶺」は、美しい富士山の高い峰を指します。

「雪はふりつつ」は、「雪が降りつづけている」という意味で、富士山の高い峰に雪が積もっている様子を描写しています。

作者が田子の浦から出て富士山を眺め、その高い峰に美しい雪が積もっている光景を詠んでいます。美しさと季節感が表現され、富士山の雄大な風景が感動的に描かれています。

005. 奥山に 紅葉踏みわけ 鳴く鹿の声きく時ぞ 秋は悲しき

奥山に紅葉踏み分け

「奥山」は奥深い山、山の奥地を指します。

「紅葉踏み分け」は、紅葉が敷き詰められている山道を歩く様子を表現しています。紅葉が美しい秋の風景を連想させます。

鳴く鹿の声聞く時ぞ

「鳴く鹿の声」は、山の中で鹿が鳴く様子を描写しています。

「聞く時ぞ」は、「その時にこそ」という意味で、この瞬間に鹿の声を聞くことが特別であることを強調しています。

秋は悲しき

「秋は悲しき」は、秋の美しい風景や自然の中に悲しみや寂しさを感じることを表現しています。秋の深まりとともに、美しい景色に秋の哀愁を感じることが歌われています。

奥深い山の中で紅葉を踏みしめ、そこで鳴く鹿の声を聞く瞬間に秋の美しさと悲しさを感じる作者の心情が描かれています。自然の中での静けさと美しさが、時折に悲愴な感情を引き起こす様子が表現されています。

006. かささぎの わたせる橋に おく霜の 白きを見れば 夜ぞふけにける

かささぎのわたせる橋に置く霜の 白きを見れば

「かささぎのわたせる橋」は、カササギ(鷺)が渡る橋を指します。鷺が渡る橋は、風景の一部として自然に溶け込んでいます。

「置く霜の白き」は、橋に降り積もった白い霜を指します。これは、夜間に冷え込んで橋に霜が発生する様子を描写しています。

夜ぞふけにける

「夜ぞふけにける」は、「夜が更けにける」の意味で、夜が進んで深まっていることを表現しています。

夜が更け、静寂な夜の風景に鷺が渡る橋とその上の霜が美しく浮かび上がる様子を描写しています。作者は夜の深い時間帯に、橋と霜の白さに心を奪われ、その美しさに感じ入っていることが伝わります。霜が橋に白く広がる様子が、寒さと美しさを同時に表現しています。

007. 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも

天の原 ふりさけ見れば

「天の原」は、広大な天空や自然の原野を指します。ここでは、開けた場所を表現しています。

「ふりさけ見れば」は、「さりげなく見ると」といった感じで、周囲を見渡すという意味です。

春日なる三笠の山に

「春日なる三笠の山」は、春日大社がある三笠山を指します。春日大社は、日本各地に祀られている神社で、この歌の舞台は奈良にある春日大社を指しています。

出でし月かも

「出でし月かも」は、「出てきた月かもしれない」という意味です。出でしは「出でる」の過去形で、「出てきた」という動作が過去にあったことを表現しています。

詠み手が開けた場所から春日大社がある三笠山を見上げると、そこには出てきたばかりの美しい月が輝いている光景が広がっています。春日大社の神聖な雰囲気と、出でしばかりの月の美しさが、日本の自然や歴史的な要素と調和して表現されています。

008. 我が庵は都のたつみしかぞすむ 世を宇治山と人はいふなり

我が庵は都の辰巳しかぞ住む

「我が庵」は、作者自身の住まいを指します。ここでは、作者が住んでいる場所を表現しています。

「都の辰巳」は、都(京都)の一部である辰巳(たつみ)地区を指します。辰巳は、東山の一部で、この歌においては作者が住む場所とされています。

世を宇治山と人は言ふなり

「世を宇治山と人は言ふなり」は、「人々はこの庵がある場所を宇治山と呼んでいる」という意味です。

「宇治山」は、歌の舞台である辰巳のことを指しています。庵のある場所が宇治山と呼ばれ、その風景や環境が広く知られていることを表現しています。

作者が都の辰巳に住む庵の風景や環境が、一般の人々によって宇治山として知られ、呼ばれていることを歌っています。庵のある場所が人々に親しまれ、特別な存在として捉えられている様子が伝わります。

009. 花の色は うつりにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせしまに

花の色は うつりにけりな

「花の色」は、花の鮮やかな色を指します。

「うつりにけりな」は、「変わってしまったのか」という意味で、花の色が変わってしまったことを表現しています。

いたづらにわが身世にふる

「いたづらに」は、「むなしく」「空しく」といった意味で、何もかもが無駄になってしまうことを指します。

「わが身世にふる」は、「わが身の運命に降りかかる」といった意味で、作者自身の身に起こる出来事や運命を指しています。

ながめせしまに

「ながめせしまに」は、「長めせし間に」で、「長い間見つめていたまに」といった意味です。作者が花の色を長い間眺めていた様子を表しています。

作者が花の美しさに感動しつつも、それが変わりゆく姿を見て、世の中のものごとがどれほど儚いものであるかを感じ、自らの運命や身の上にも同様の無常さが訪れることを嘆いています。美しい花の変化を通じて、人生の短さや無常さを表現した歌です。

010. これやこの 行くも帰るも 別れては知るも知らぬも 逢坂の関

これやこの 行くも帰るも

「これやこの」は、「これがまた」といった感嘆の表現で、作者が心から感じていることを示します。

「行くも帰るも」は、「行っても戻っても」といった意味で、移動や旅行の際の出発と帰還を指しています。

別れては知るも知らぬも

「別れては知るも知らぬも」は、「別れることでわかることもあれば、わからないこともある」といった意味で、出発や別れを通じて新たな経験があり、また分からないこともあることを表現しています。

逢坂の関

「逢坂の関」は、逢坂山を越える古代の要所や難所を指しています。ここでは、旅路の一部として使われる逢坂の関が象徴的に登場しています。

作者が旅立ちと帰還、そして別れと再会を通じて得られる経験や感情について考えています。逢坂の関を通過することで、新たな出会いや別れがあることを感じ、人生の移り変わりや不確かさに思いを馳せていることが伝わります。

011. わたの原 八十島かけて 漕ぎ出でぬと 人にはつげよ あまのつり舟

わたの原 八十島かけて

「わたの原」は、瀬戸内海など広がる海原を指します。

「八十島かけて」は、八十の島々を渡る様子を表現しています。この部分では、複数の島が点在する海域を舞台にしています。

漕ぎ出でぬと 人にはつげよ

「漕ぎ出でぬと」は、「漕ぎ出さないで」という意味で、作者が出航しないことを伝えています。

「人にはつげよ」は、「人に伝えよ」という意味で、作者が他の人々にこのことを伝えるようにとの願いが込められています。

あまのつり舟

「あまのつり舟」は、「天の釣船」とも読まれ、「神の舟」と解釈されることもあります。これは神仏の使者である舟や船のことを指します。作者が神の舟に乗らないようにとの祈りを込めている可能性があります。

作者が広がる海域に八十の島が点在し、その中で舟を漕ぐことなく出航しないでほしいとの思いを歌っています。また、神の舟や神仏への信仰を示唆しつつ、神聖なものへの畏れや敬意も表現されています。

012. 天津風 雲の通ひ路吹きとぢよ をとめの姿 しばしとどめむ

天津風 雲の通い路 吹きとじよ

「天津風」は、神聖な風を指します。ここでは、神々が住む天空から吹き降ろす風を指しています。

「雲の通い路 吹きとじよ」は、「雲の通り道を閉ざせ」という意味で、神の風が通り過ぎる雲の通り道を閉ざし、風を止めるようにとの願いが込められています。

をとめの姿 しばしとどめむ

「をとめの姿」は、「乙女の姿」や「美しい女性の姿」を指します。

「しばしとどめむ」は、「しばらく留めておこう」という意味で、その美しい姿をしばらく留めておきたいとの作者の思いを表現しています。

神聖な天津風が吹き荒れる中で、その風を通り過ぎる雲の通り道を閉ざし、美しい女性の姿をしばらくとどめておきたいとの作者の思いが詠まれています。風や雲の自然な要素を通して、恋愛や美の感情が表現されています。

013. つくばねの峰よりおつるみなの川 恋ぞつもりて淵となりぬる

つくばねの峰より落つるみなの川

「つくばねの峰」は、雄大な山の頂上を指します。ここでは、その山から流れ落ちる水を表現しています。

「みなの川」は、水が流れる川を指します。この部分で山から流れ落ちた水が川となり、流れていく様子が描かれています。

恋ぞつもりて淵となりぬる

「恋ぞつもりて」は、「恋を意識して」といった意味で、作者が恋愛の感情に心を奪われていることを表現しています。

「淵となりぬる」は、「淵(ふち)となっている」という意味で、恋の感情が水の流れによって淵やくずれになり、静まっている様子を描写しています。

作者が山から流れ落ちる水が川となり、そこで恋愛の感情が湧き上がり、淵を作り出している様子を詠んでいます。山や水の自然な要素を通して、恋愛の激しさや感情の流れを表現しています。

014. 陸奥の しのぶもぢずり 誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに

陸奥の しのぶもぢずり

「陸奥の」は、陸奥という地域を指します。陸奥は現在の東北地方の一部で、和歌においては遠くの地を意味することもあります。

「しのぶもぢずり」は、「忍ぶ擬態の困難さ」といった意味で、作者が感じる心の乱れや苦悩を表現しています。

誰ゆゑに 乱れそめにし われならなくに

「誰ゆゑに」は、「どうして」といった意味で、作者がなぜかを問いかけています。

「乱れそめにし」は、「乱れ始めた」という意味で、作者の心が動き始め、乱れ出していることを表現しています。

「われならなくに」は、「私はなぜならないのか」といった意味で、作者が自らの心の乱れに戸惑いながら問いかけています。

作者が遠くの地、陸奥にいる時に心が乱れ、その理由をどうしてか理解できずに悩んでいる様子が描かれています。恋愛や別れの感情が心を乱し、その複雑な気持ちが表現されています。

015. 君がため春の野に出でて若菜つむ 我が衣手に雪はふりつつ

君がため春の野に出でて若菜つむ

「君がため」は、「あなたのために」という意味で、この歌の詠み手が特定の相手に向けて詠んでいることを示しています。

「春の野に出でて若菜つむ」は、春の野原に出かけて若草を摘むという行為を描写しています。若草を摘むことは春の象徴であり、若い愛を意味します。

我が衣手に雪はふりつつ

「我が衣手に雪はふりつつ」は、「私の袖に雪が降り積もっている」という意味で、意外な光景を描写しています。通常、春は雪が降る季節ではないが、作者の袖には雪が積もっている様子が表現されています。

詠み手がある特定の人に対して、春の野に出かけて若草を摘む行為を通じて、若い愛情や思いを表現しています。一方で、予測できない出来事(袖に雪が積もる)があることから、詠み手の感情が予測不可能であることも示唆されています。

016. 立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとしきかば 今かへり来む

立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる

「立ち別れ」は、「立ち去る別れ」という意味で、別れの瞬間を指します。

「いなばの山の峰に生ふる」は、「いなばの山の峰に生える」という意味で、山の峰に松が生い茂っている様子を描写しています。

まつとしきかば 今かへり来む

「まつとしきかば」は、「待つ年寄る場所」という意味で、作者が待ち続けていた場所を指します。

「今かへり来む」は、「今帰り来る」という意味で、待ち望んでいた人がついに帰ってくる瞬間を表現しています。

作者が別れの瞬間に立ち、いなばの山の峰に生い茂る松が時を重ねながら成長している様子を通じて、待ち望んでいた人がついに帰ってくることを表現しています。松は長寿と縁起の良い樹木としても知られており、待ち続けることで再会の瞬間がやってくることが示唆されています。

017. 千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは

千早ぶる 神代もきかず 龍田川

「千早ぶる」は、「疾走(はやぶる)する」という意味で、神聖な雰囲気をもつことを表現しています。

「神代もきかず」は、「神代のことも知らず」という意味で、非常に古くから存在する川であることを示唆しています。

「龍田川」は、和歌の舞台となる川の名前で、古くからの歌枕の一つです。

からくれなゐに 水くくるとは

「からくれなゐに」は、「辛(から)く濁れた水に」という意味で、水の清浄さや美しさを強調しています。

「水くくるとは」は、「水をくくり上げることは」という表現で、水の神聖なる清浄さや美しさを称賛しています。

神聖な雰囲気をもちながらも清らかで美しい水を持つ龍田川の存在を賞賛しています。作者は神代から続く古くからの風景に感嘆し、その清らかな水をくくり上げることの素晴らしさを詠んでいます。

018. 住の江の 岸による波 よるさへや 夢の通ひ路 人目よくらむ

住の江の 岸による波

「住の江」は、『万葉集』に詠まれた和歌で、作者の住む場所や出身地を指します。この場合は、作者の故郷であるとされています。

「岸による波」は、住の江の岸に打ち寄せる波を描写しています。自然の風景が物語の舞台となります。

よるさへや 夢の通ひ路

「よるさへや」は、「夜もまた」といった意味で、夜でも同様にという言葉です。

「夢の通ひ路」は、「夢の通い路」とも解釈でき、夢の中で行き来する道や場所を指します。ここでは、夢に描かれる風景や出来事を表現しています。

人目よくらむ

「人目よくらむ」は、「人目に良くらむ」とも解釈され、「人の目に映える」といった意味です。つまり、夢の中の風景が美しく鮮明で、他人にも共感されるようなものであると言っています。

作者が故郷の住の江の岸に打ち寄せる波を通して、夢の中で美しい風景や通い路を描いています。この夢の通ひ路が、人目に映えるほど美しいものであることを詠んでいます。

019. 難波潟 みじかき芦の ふしの間も あはでこの世を 過ぐしてよとや

難波潟 みじかき芦の ふしの間も

「難波潟」は、難波の浜辺や海岸を指します。難波は大阪市の一部で、当時は海に面していた地域です。

「みじかき芦の ふしの間も」は、「短い葦の中も」といった意味で、潟の中に生える葦や草の短い部分を指しています。

あはでこの世を 過ぐしてよとや

「あはで」は、「あふさず」とも解釈でき、「悩まず」「葛藤せず」といった意味です。

「この世を 過ぐしてよとや」は、「この世を過ごして行くがいい」という願いを表現しています。作者がこの世で安らかに過ごすことを望んでいます。

作者が難波潟の浜辺やみじかな葦の中で静かな時を過ごし、この世を悩ますことなく穏やかに過ごしていくことを祈っている様子が描かれています。短い葦の中も含めて、自然の美しさと静寂さが和歌に込められています。

020. わびぬれば 今はた同じ 難波なる 身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

わびぬれば 今はた同じ 難波なる

「わびぬれば」は、「侘びてしまうと」、「精進してしまうと」といった意味で、作者が自らを省みて謙遜している表現です。

「今はた同じ 難波なる」は、「今もまた同じ難波となる」という意味で、現在の状況や境遇が前と変わっていないことを指しています。

身をつくしても 逢はむとぞ思ふ

「身をつくしても」は、「身を尽くしても」とも解釈でき、「全力を尽くしても」という意味です。

「逢はむとぞ思ふ」は、「逢いたいと思う」という作者の感情を表現しています。作者がどれだけ努力しても、難波で逢いたいという思いが変わらないことを示唆しています。

作者が謙遜しながらも、どれだけ努力しても自身の現状が変わらず、難波で逢いたいという思いが変わらないことを表現しています。難波は恋愛や別れの場所として知られており、作者の思いが詠まれています。

021. 今来むと いひしばかりに 長月の 有明の月を 待ち出でつるかな

今来むと いひしばかりに

「今来むと」は、「今来るだろうか」という期待や願望を表現しています。

「いひしばかりに」は、「言い尽くすばかりに」とも解釈でき、「言葉に尽くしてしまうくらいに」という意味です。詠み手がどれだけ待ち望んでいるかを強調しています。

長月の 有明の月を 待ち出でつるかな

「長月の」は、「九月の」という意味で、和歌の舞台が九月であることを示しています。

「有明の月」は、「明け方の月」を指します。夜が明けて月が見える瞬間を表現しています。

「待ち出でつるかな」は、「待ち出でるかな」とも解釈でき、「待ち続けて出かけるだろうか」という詠み手の心情が込められています。

詠み手が待ち望んでいる相手が今来るだろうかという期待と、九月の明け方に待ち出てくるであろう月を描いています。この和歌は、恋愛や別れの感情を表現しており、詠み手の心の葛藤や期待が込められています。

022. 吹くからに秋の草木のしをるれば むべ山風をあらしといふらむ

吹くからに秋の草木のしをるれば

「吹くからに」は、「風が吹くと同時に」といった意味で、風が季節を告げる瞬間を表現しています。

「秋の草木」は、秋の季節になると色づく草木を指します。これは秋の訪れを象徴しています。

「しをるれば」は、「枯れ果てると」といった意味で、秋の訪れによって草木が次第に枯れていく様子を描写しています。

むべ山風をあらしといふらむ

「むべ」は、「恐らく」といった意味で、作者が言葉を濁している表現です。

「山風をあらしといふらむ」は、「山風が嵐と呼ばれるだろうか」という作者の疑問を示しています。風があたかも嵐のように草木を揺らし、秋を告げる様子を問いかけています。

風が吹くと同時に秋の草木が色づき、その様子が山風が嵐のようになるかのように感じられるという表現がなされています。作者は風景を通して季節の移り変わりを感じ、その中に自然の美しさと儚さを見いだしています。

023. 月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ わが身ひとつの 秋にはあらねど

月見れば ちぢにものこそ 悲しけれ

「月見れば」は、「月を見ると」といった意味で、和歌の舞台となる情景が描かれます。

「ちぢにものこそ」は、「乳母とも子とも判然しないものが」といった意味で、夜空に浮かぶ月の影を通じて、遠くにいる乳母とも子とも判然しないものが悲しい様子を描写しています。

「悲しけれ」は、「悲しい」という感情を表現しています。

わが身ひとつの 秋にはあらねど

「わが身ひとつの」は、「自分だけの」といった意味で、作者自身のことを指します。

「秋にはあらねど」は、「秋ではない」という意味で、詠み手が感じる悲しみは秋に由来するものではないと言っています。

月明かりのもとで影がちぢんで見え、その影に含まれるものが乳母とも子ともわからないものとして描かれています。作者がその光景を通じて感じる悲しみは、秋に限らず一年中感じるものであるというニュアンスが込められています。

024. このたびは 幣も取りあへず 手向山 紅葉のにしき 神のまにまに

このたびは 幣も取りあへず

「このたびは」は、「この度は」といった意味で、特定の出来事や行事を指します。

「幣も取りあへず」は、「幣(ぬさ)も取らずに」という表現で、神聖な場所に訪れた際に、手をつけないで、手向山への祈りや敬意を表しています。

手向山 紅葉のにしき 神のまにまに

「手向山」は、和歌の舞台となる場所で、神社や仏教寺院への参詣が行われる山を指します。

「紅葉のにしき」は、「紅葉の錦」といった意味で、秋の紅葉が美しい光景を描写しています。

「神のまにまに」は、「神のまにまに」で、「神の御託宣に従って」といった意味で、神聖な場所への訪れを神のご加護や御導きに委ねる様子を表しています。

作者が手向山への参詣を通じて神聖な場所への敬意を捧げ、紅葉の美しい景色とともに、神の御託宣に従いながら訪れたことを表現しています。幣を取らず手向山への敬意を示すことで、純粋な信仰心と謙虚な態度が詠まれています。

025. 名にしおはば 逢坂山の さねかづら 人に知られで くるよしもがな

名にしおはば 逢坂山の さねかづら

「名にしおはば」は、「名前を知られるならば」といった意味で、自らの名前を言及しています。

「逢坂山の さねかづら」は、「逢坂山の種かづら」という表現で、逢坂山に生える樹木や植物を指します。逢坂山は和歌の舞台となる山の名前です。

人に知られで くるよしもがな

「人に知られで」は、「人に知られて」といった意味で、他人に自分の名前が知れ渡っていることを指します。

「くるよしもがな」は、「くるようならばよいものがないか」といった意味で、自らの名前を知ってもらうことに期待や願望を込めています。

作者が自らの名前を知ってもらうために、逢坂山のさねかづらに名前を託している様子が表現されています。逢坂山やさねかづらは、作者が自らを託す象徴として用いられ、他人に知られることへの期待や願望が込められています。

026. 小倉山 峰のもみぢ葉 心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

小倉山 峰のもみじ葉

「小倉山」は、和歌の舞台となる場所で、小倉山の自然の風景が描かれています。

「峰のもみじ葉」は、「山の頂(みね)にある紅葉の葉」という意味で、秋の景色を象徴しています。

心あらば 今ひとたびの みゆき待たなむ

「心あらば」は、「心があれば」といった意味で、作者の気持ちや感情を前面に出す表現です。

「今ひとたびの みゆき待たなむ」は、「今一度の雪を待とうか」といった意味で、作者が心の美しさに触発され、今一度だけでも雪が降るのを待ちたいとの思いが込められています。

小倉山の峰に広がる紅葉の美しい風景が、作者の心に感動と感慨を呼び起こしています。その美しい風景を通じて、作者がもう一度だけでも雪が降るのを待ち望んでいる様子が描かれています。

027. みかの原 わきて流るる 泉川 いつみきとてか 恋しかるらむ

みかの原 わきて流るる 泉川

「みかの原」は、和歌の舞台となる場所で、美しい原野や広がる原野を指します。

「わきて流るる 泉川」は、「湧き出て流れる泉の川」といった意味で、美しい川が流れている光景を描写しています。

いつみきとてか 恋しかるらむ

「いつみきとてか」は、「いつ見きと言えば」といった意味で、美しい景色がいつ見ても心に残ることを表現しています。

「恋しかるらむ」は、「恋しく思われるだろうか」といった意味で、その美しい景色に対する作者の感情や思いが込められています。

美しい自然の風景、特にみかの原に流れる美しい泉川が、作者の心に深い感銘を与えています。その美しい景色を思い出すたびに、作者は恋しさを感じ、心が引き裂かれるような思いがあることが歌われています。

028. 山里は 冬ぞさびしさ まさりける 人めも草も かれぬと思へば

山里は 冬ぞさびしさ ますりける

「山里」は、山間の地方や山里のことを指します。

「冬ぞさびしさ ますりける」は、「冬は寂しさがますます増す」といった意味で、寒さと孤独感が同時に表現されています。

人めも草も かれぬと思へば

「人めも草も かれぬと思へば」は、「人も草も枯れ果てると思えば」といった意味で、冬の季節の寂しさや荒涼とした風景を描写しています。

この部分では、「人」や「草」が共に寒さや孤独さに耐えながら生きる様子が表現されています。

山里の冬の風景が寂しさに包まれ、その中で人や草も寒さに耐えながら生きている姿が描かれています。作者が冬の寂しさや孤独さに心を寄せ、山里の風景を通じて自然との共鳴を感じていることが表現されています。

029. 心あてに 折らばや折らむ 初霜の おきまどはせる 白菊の花

心あてに 折らばや折らむ

「心あてに」は、「気持ちを伝えるために」といった意味で、作者が花を贈り物として使おうとしていることを示しています。

「折らばや折らむ」は、「折ろうか折るまいか」といった意味で、作者が花を贈るかどうかを迷っている表現です。

初霜の おきまどはせる 白菊の花

「初霜の」は、「初霜の」といった意味で、初めての霜が降りる秋の季節を指します。

「おきまどはせる」は、「戸惑わせる」といった意味で、作者の気持ちが戸惑いや躊躇いを含んでいることを表現しています。

「白菊の花」は、白い菊の花を指し、花言葉として清純や高潔な思いが込められています。

作者が初霜の季節に心を寄せて白菊の花を贈り物にしようかどうかを悩んでいる様子が描かれています。花が美しく清らかでありながら、作者の気持ちには躊躇いがあり、相手に対する思いや心情が微妙な葛藤を抱えていることが表現されています。

030. 有明の つれなく見えし 別れより 暁ばかり うきものはなし

有明の つれなく見えし 別れより

「有明の」は、「明け方の」といった意味で、夜明けの時間帯を指します。

「つれなく見えし」は、「冷淡に見えた」といった意味で、夜明けの光に照らされて寂しく感じられたことを表現しています。

「別れより」は、「別れの瞬間から」といった意味で、別れた直後の心情を指します。

暁ばかり うきものはなし

「暁ばかり」は、「暁ばかりである」といった意味で、夜明けの光景が特に目立つという表現です。

「うきものはなし」は、「浮き物はない」といった意味で、夜明けの光景からは何も生まれない、何も浮かんでこないという心情が込められています。

作者が別れの瞬間から夜明けを迎え、その光景が特に寂しさを引き立てて感じられることが表現されています。夜明けの空は美しいが、その美しさが余計に寂しさを際立たせ、未来への希望が湧かない様子が描かれています。

031. 朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに 吉野の里に ふれる白雪

朝ぼらけ 有明の月と 見るまでに

「朝ぼらけ」は、「朝が明けて」の意味で、夜から朝にかけての時間帯を指します。

「有明の月」は、「明け方の月」といった意味で、夜明け時に見られる美しい月を表現しています。

「見るまでに」は、「見るまでになるまでに」といった意味で、朝の時間が経つまで待つという表現です。

吉野の里に ふれる白雪

「吉野の里」は、和歌の舞台となる場所で、吉野の美しい自然や風景を指します。

「ふれる白雪」は、「触れるような白い雪」といった意味で、吉野の里に降り積もった雪を表現しています。

作者が朝明けになるまで待ち、有明の月とともに吉野の里に降り積もった美しい白い雪を感じる様子が描かれています。吉野の自然と雪の美しさに触発され、作者の心に感慨と感動が生まれていることが表現されています。

032. 山川に 風のかけたる しがらみは 流れもあへぬ もみぢなりけり

山川に 風のかけたる しがらみは

「山川に」は、山や川のことを指します。

「風のかけたる」は、「風が吹き渡る」といった意味で、風景に風の影響があることを表現しています。

「しがらみは」は、「しがらみが」といった意味で、様々な結びつきや束縛を指します。

流れもあへぬ もみじなりけり

「流れもあへぬ」は、「流れも逃れることができない」といった意味で、風景や自然の中で逃れがたいものを表現しています。

「もみじなりけり」は、「もみじになった」といった意味で、もみじ(紅葉)は季節の変化や移り変わりを象徴しています。

作者が山や川に風が吹き渡り、そこに結びつくあらゆるものが風によって変化してゆく様子を描いています。風景や自然の中でのしがらみや束縛が流れも逃れられず、それが紅葉となって季節の変化を象徴しているとされています。

033. 久かたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ

久かたの 光のどけき 春の日に

「久かたの」は、「久しぶりの」といった意味で、長い間続いていた寒さや冬の日々からの脱却を表現しています。

「光のどけき」は、「光り輝く」といった意味で、春の日差しや陽光が穏やかに広がっていることを表現しています。

「春の日に」は、春の季節の中で、特に日差しが明るく感じられる瞬間を指します。

しづ心なく 花の散るらむ

「しづ心なく」は、「しずかな心なく」といった意味で、心に静けさや安らぎが広がっていることを表現しています。

「花の散るらむ」は、「花が散るだろうか」といった意味で、春の訪れとともに花が散り始める様子を描写しています。

作者が長かった冷たい冬の終わりに、春の日差しに包まれて心が穏やかになり、花が散り始める様子を表現しています。春の訪れによって心が和らぎ、自然の美しさと共に新しい季節を感じ取ることが歌われています。

034. 誰をかも 知る人にせむ 高砂の 松もむかしの 友ならなくに

誰をかも 知る人にせむ

「誰をかも」は、「誰かを」といった意味で、特定の誰かを指すことができません。

「知る人にせむ」は、「知る人になればよい」といった意味で、作者が願望や願いを表現しています。

高砂の 松もむかしの 友ならなくに

「高砂の」は、「高砂の」といった意味で、具体的な場所や風景を指し示しています。

「松もむかしの 友ならなくに」は、「松も昔の友ならなくなり」といった意味で、松が昔の友となり得なくなったことを表現しています。

作者が誰かを知りたいという思いを込めて、高砂の松が昔の友となり得なくなったことを表現しています。この歌は、昔の友情や縁が薄れ、変化していく中で、作者の寂しさや哀愁が感じられます。また、「高砂の松」は、枝垂れる様子が寂寥感を増幅させ、歌に深い感情を与えています。

035. 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほひける

人はいさ 心も知らず

「人はいさ」は、「人はいまさら」といった意味で、人々が今さらと気づくことなく。

「心も知らず」は、「心も知らないまま」といった意味で、人々が自分の心情に気づいていない状態を表現しています。

ふるさとは 花ぞむかしの 香ににほひける

「ふるさとは」は、「故郷は」といった意味で、歌の舞台となる場所を指します。

「花ぞむかしの 香ににほひける」は、「花が昔の香りにほほえんでいる」といった意味で、故郷の花が昔の香りを今もなお保っていることを表現しています。

作者が人々が今さらに気づくこともなく、故郷の花が昔の香りを今もなお香り立たせている様子を詠んでいます。この歌は、故郷の花の香りが時を超えて心に残り、感慨深い思いを呼び起こしていることを表現しています。

036. 夏の夜は まだよひながら 明けぬるを 雲のいづこに 月やどるらむ

夏の夜は まだよひながら 明けぬるを

「夏の夜は」は、夏の夜を指します。

「まだよひながら」は、「まだ夜が明けそうもない」といった意味で、夜明け前の時間帯を表現しています。

「明けぬるを」は、「明けないだろうな」といった意味で、夜が明けないままであることを示しています。

雲のいづこに 月やどるらむ

「雲のいづこに」は、「雲のどこに」といった意味で、どこかに雲があって、月が隠れていることを指します。

「月やどるらむ」は、「月が止まっているだろうか」といった意味で、月が雲に覆われて動かなくなっているかどうかを問いかけています。

作者が夏の夜、夜明け前の時間帯に、まだ夜が明けそうもなく、月が雲に覆われているかどうかを問いかけています。夜が明けず、月が雲に覆われている様子が、夏の夜の静けさや神秘的な雰囲気を感じさせています。

037. 白露に 風の吹きしく 秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

白露に 風の吹きしく

「白露に」は、「白い露が降りて」といった意味で、秋の夜に露が白く濡れることを指します。

「風の吹きしく」は、「風が吹きしく」で、風が強く吹く様子を表現しています。

秋の野は つらぬきとめぬ 玉ぞ散りける

「秋の野は」は、「秋の野原は」といった意味で、秋の風景を指します。

「つらぬきとめぬ」は、「つらぬくことができず、とどめられない」といった意味で、秋の野の美しさや色彩がつかみどころがないことを表現しています。

「玉ぞ散りける」は、「宝石のように輝いて散りばめられている」といった意味で、秋の野に美しい色とりどりの落ち葉が散りばめられている様子を表現しています。

作者が秋の夜に白い露が降り、風が強く吹く中で、秋の野が美しい色とりどりの玉のような宝石で飾られている様子を詠んでいます。秋の風景の美しさが儚さとともに表現されています。

038. 忘らるる 身をば思はず 誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

忘らるる 身をば思はず

「忘らるる」は、「忘れ去られる」といった意味で、自分が忘れ去られることを指します。

「身をば思はず」は、「自分を思わないで」といった意味で、作者が自分自身を考えることなく。

誓ひてし 人の命の 惜しくもあるかな

「誓ひてし」は、「誓っていた」といった意味で、かつての誓いがあったことを示しています。

「人の命の 惜しくもあるかな」は、「人の命の惜しさもあるだろうか」といった意味で、かつての自分が他人の命の価値を考える余裕がなかったことを表現しています。

作者がかつては自分のことを忘れ、他人の命の価値を惜しむことなく過ごしていたが、誓いを通じてその無頓着さに気づき、他人の命の尊さを考えるようになった様子を詠んでいます。深い省みや悔いの念が感じられる和歌となっています。

039. 浅茅生の をののしの原 しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

浅茅生の をののしの原

「浅茅生」は、「茅(ちがや)の生えている浅い草地」といった意味で、自然の中での静かな場所を指します。

「をののしの原」は、「をののしの原野」といった意味で、広がる原野や草原を表現しています。

しのぶれど あまりてなどか 人の恋しき

「しのぶれど」は、「忍び忍びとしていても」といった意味で、感情を抑えつつも。

「あまりてなどか」は、「思い切ってどうか」といった意味で、感情を抑えきれずにどうかと思う様子を表現しています。

「人の恋しき」は、「人の恋しさ」といった意味で、他人の恋愛感情に対する思いを表現しています。

作者が自然の中で心を抑えながらも、他人の恋愛感情に対して興味や思いが募り、抑えきれない気持ちを表現しています。静けさや穏やかな自然の風景と、そこに対峙する人間の複雑な感情が描かれています。

040. しのぶれど 色に出でにけり わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

しのぶれど 色に出でにけり

「しのぶれど」は、「忍び忍びとしていても」といった意味で、感情を抑えながらも。

「色に出でにけり」は、「色となって現れてしまった」といった意味で、感情が表に出てしまったことを表現しています。

わが恋は ものや思ふと 人の問ふまで

「わが恋は」は、「私の恋は」といった意味で、作者の恋情を指します。

「ものや思ふと」は、「いったい何を思っているのだろうか」といった意味で、他人が作者の心情を疑問視している様子を表現しています。

「人の問ふまで」は、「人が尋ねるまで」といった意味で、他人が作者に対して問いかけるまで、作者の心情が気づかれないようにしのいでいたことを示しています。

作者が感情を抑えるつもりでも、その感情が色濃く表れ、他人に疑問視されるまでが描かれています。恋愛の複雑な心情や他人との関わりに対する繊細な感受性が詠まれています。

041. 恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり 人知れずこそ 思ひそめしか

恋すてふ わが名はまだき 立ちにけり

「恋すてふ」は、「恋をしている」といった意味で、作者が恋に落ちていることを表現しています。

「わが名はまだき」は、「私の名前はまだ」といった意味で、まだ恋愛関係が始まったばかりであることを示しています。

「立ちにけり」は、「立ち上がった」といった意味で、立ち上がってしまった、または出発したことを表現しています。

人知れずこそ 思ひそめしか

「人知れずこそ」は、「人に知られないからこそ」といった意味で、恋愛感情が秘密にされていることを強調しています。

「思ひそめしか」は、「思い始めたばかり」といった意味で、恋心が芽生えつつあることを表現しています。

作者がまだ恋愛が始まったばかりで、それが人知れず秘密のもとに芽生えていることを詠っています。繊細で初々しい恋の始まりを描いた和歌です。

042. 契りきな かたみに袖をしぼりつつ 末の松山 波こさじとは

契りきな かたみに袖をしぼりつつ

「契りきな」は、「約束したな」といった意味で、誓約や契りを交わしたことを指します。

「かたみに」は、「紙」や「文」を指し、契りや誓いの約束を表現しています。

「袖をしぼりつつ」は、「袖をしぼりながら」といった意味で、感情の表れや涙を袖で拭う様子を描写しています。

末の松山 波こさじとは

「末の松山」は、「最後の松の木の山」といった意味で、山の景色を指します。

「波こさじとは」は、「波が小さく立ちこめる」といった意味で、波立たない平和な様子を表現しています。

作者が契りや誓いに感慨深く、その涙を袖で拭いながら、穏やかで平和な山の風景を望んでいる様子が描かれています。契りの重みや感情と、自然の美しい風景とが調和しています。

043. 逢ひ見ての 後の心に くらぶれば 昔はものを 思はざりけり

逢ひ見ての 後の心に くらぶれば

「逢ひ見ての」は、「逢って見た後の」といった意味で、出会った後の状況を指します。

「後の心に くらぶれば」は、「後の心がくらぶれば」といった意味で、後になって思い悩む心情を表現しています。

昔はものを 思はざりけり

「昔はものを」は、「昔は物事を」といった意味で、かつてはそれほど深く考えなかったことを示しています。

「思はざりけり」は、「思わなかった」といった意味で、かつては感じたり考えたりしていなかったことを表現しています。

作者がある人との出会いや別れの経験から、その後になって初めて感じる複雑な心情を詠んでいます。過去の経験を通して変化していく心のありさまが描かれています。

044. 逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに 人をも身をも 恨みざらまし

逢ふことの 絶えてしなくは なかなかに

「逢ふことの」は、「逢うことの」といった意味で、人との出会いや交流を指します。

「絶えてしなくは」は、「絶えず続くことはなかなかない」といった意味で、人間関係や出会いが絶えず続くことは難しいと言っています。

「なかなかに」は、「なかなかに」といった意味で、難しいという意味を補強しています。

人をも身をも 恨みざらまし

「人をも身をも」は、「人もまた身もまた」といった意味で、他人も自分も。

「恨みざらまし」は、「恨みざらまし」といった意味で、「恨みをなくす」という意味で、誰もが争いや恨みを抱かないようにしたいという願いが込められています。

人との出会いや別れが絶えず続く中で、争いや恨みを持たず、穏やかな心を保ちたいという作者の思いが表現されています。人間関係の難しさや儚さを感じながらも、平和な心を願っています。

045. あはれとも いふべき人は 思ほえで 身のいたづらに なりぬべきかな

あはれとも いふべき人は 思ほえで

「あはれとも」は、「哀れだとも」といった意味で、感傷や哀愁を表現しています。

「いふべき人は」は、「言うべき人は」といった意味で、相手や対象を指します。

「思ほえで」は、「思い起こして」といった意味で、その人を思い返して。

身のいたづらに なりぬべきかな

「身のいたづらに」は、「身の無駄に」といった意味で、自分の存在や努力がむなしく感じられることを表現しています。

「なりぬべきかな」は、「なるべくもないかな」といった意味で、望ましい状態になり得るだろうかとの疑問や懸念が込められています。

作者が感傷的な気持ちである一方で、思い返してもむなしい存在であることを悟り、自分の身のむなしさや哀愁を問いかけています。深い感慨と、現実への疑問が表現されています。

046. 由良のとを わたる舟人 かぢをたえ 行く方も知らぬ 恋の道かな

由良のとを わたる舟人 かぢをたえ

「由良のとを」は、「由良の浜を」といった意味で、由良の海岸を指します。

「わたる舟人」は、「舟を渡る人」といった意味で、舟で海を渡る人物を表現しています。

「かぢをたえ」は、「かじを絶え」といった意味で、かじ(船の漕ぎ手)が漕ぐことを絶える、すなわち進むことをやめることを指します。

行く方も知らぬ 恋の道かな

「行く方も知らぬ」は、「行く先も知らない」といった意味で、舟人がどこに向かって進んでいるのかを知らないことを表現しています。

「恋の道かな」は、「恋の進む先だろうか」といった意味で、舟人の心情として恋の行方が未知であることを示しています。

由良の浜を渡る舟人が進む先を知らず、恋の行方も未知であることを歌っています。舟人の進む先や恋の行方が不確かなまま、未知の旅路に向かう心情が描かれています。

047. 八重むぐら しげれる宿の さびしきに 人こそ見えね 秋はきにけり

八重むぐら しげれる宿の

「八重むぐら」は、「蔓(つる)が茂る」といった意味で、草木が茂った様子を表現しています。

「しげれる宿」は、「茂り続ける宿」といった意味で、宿が草木に覆われている光景を描写しています。

さびしきに 人こそ見えね 秋はきにけり

「さびしきに」は、「寂しい中で」といった意味で、宿が草木に覆われて寂しい雰囲気を表現しています。

「人こそ見えね」は、「人が見当たらない」といった意味で、宿が草木に隠れて人が見えない様子を描いています。

「秋はきにけり」は、「秋がきている」といった意味で、季節感として秋の淋しさが加わっています。

草木に覆われた宿が秋の季節に寂しさを感じさせ、人々の姿も見当たらない光景が描かれています。宿の草木や秋の風景が、寂寥感を強調しています。

048. 風をいたみ 岩うつ波の おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな

風をいたみ 岩うつ波の

「風をいたみ」は、「風に激しく打たれて苦しむ」といった意味で、風の影響を受ける様子を描写しています。

「岩うつ波の」は、「岩に打たれる波の」といった意味で、波が岩に激しく打ち寄せる光景を表現しています。

おのれのみ 砕けてものを 思ふころかな

「おのれのみ」は、「自分だけ」といった意味で、孤独な状態を示しています。

「砕けてものを」は、「砕けてしまうものを」といった意味で、波によって砕かれてしまうものを指します。

「思ふころかな」は、「思う時だろうかな」といった意味で、作者が孤独で苦しむ中で、自分自身が砕かれてしまう光景を思うであろう瞬間を表しています。

風や波の荒れる中で孤独な自分を感じながら、その中での苦悩や砕けゆく様子を思う瞬間が描かれています。風や波の荒れは、作者の心情を象徴的に表現しています。

049. 御垣守 衛士のたく火の 夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思へ

御垣守 衛士のたく火の

「御垣守」は、「宮の垣を守る者」といった意味で、宮廷や宮殿の警備を担当する役職を指します。

「衛士のたく火の」は、「衛士たちの灯りの」といった意味で、宮殿や宮の周りで灯される火を指します。

夜はもえ 昼は消えつつ ものをこそ思へ

「夜はもえ」は、「夜は燃えている」といった意味で、夜間は火が灯っていることを表現しています。

「昼は消えつつ」は、「昼は消えていく」といった意味で、昼間になると火が消えてしまう様子を描写しています。

「ものをこそ思へ」は、「ものを思う」といった意味で、作者が火の夜間の存在と昼間の消えるさまを通して、何かを深く考えていることを示しています。

宮廷の御垣守や衛士たちの火が夜間に灯り、昼間には消えていく様子を通して、作者が深い思索にふけっていることが表現されています。火の存在と消えるさまが、時の移り変わりとともに作者の心情を象徴的に描写しています。

050. 君がため 惜しからざりし 命さへ ながくもがなと 思ひけるかな

君がため 惜しからざりし 命さへ

「君がため」は、「あなたのために」といった意味で、相手に思いを寄せる心情を表現しています。

「惜しからざりし」は、「惜しまなかった」といった意味で、その人のために何かを惜しまずに捧げた様子を示しています。

「命さへ」は、「命でさえも」といった意味で、作者がその人のために自らの命を惜まずに捧げる覚悟を表現しています。

ながくもがなと 思ひけるかな

「ながくもがな」は、「永くもがな」といった意味で、永遠に続くだろうかという感慨を表現しています。

「思ひけるかな」は、「思いけるかな」といった意味で、どれほどの想いでいられるだろうかという作者の思いを示しています。

作者が相手に対して深い愛情や献身を込め、その人のために命を惜しまず捧げる覚悟を表現しています。永遠に続くであろうその思いが、作者の心情を強調しています。

051. かくとだに えやは伊吹の さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを

かくとだに えやは伊吹の さしも草

「かくとだに」は、「こうであれ」といった意味で、作者が物思いにふける様子を表しています。

「えやは伊吹の」は、「江や伊吹の」といった意味で、舞台や場所を示しています。伊吹は滋賀県にある山で、歌枕とされています。

「さしも草」は、「さしもぐさ」とも読まれ、「針のように尖った草」といった意味で、作者が物思いに耽っている場所の草を指します。

さしも知らじな 燃ゆる思ひを

「さしも知らじな」は、「さしも知らない」といった意味で、作者がその思いを他人に知られていないことを示しています。

「燃ゆる思ひを」は、「燃える思いを」といった意味で、作者の心の中に燃えるような思いを表現しています。

作者が伊吹の山の下で、穏やかな風景の中で物思いにふけり、その思いが心の中で燃え上がっている様子を歌っています。場所の静けさと、作者の内に秘められた燃えるような思いが対比されています。

052. 明けぬれば 暮るるものとは 知りながら なほ恨めしき あさぼらけかな

明けぬれば 暮るるものとは 知りながら

「明けぬれば」は、「明けないならば」といった意味で、夜明けを迎えない場合を指しています。

「暮るるものとは 知りながら」は、「暮れるものとは 知っているのに」といった意味で、夜が明けることを知りつつもその瞬間を待ち望んでいることを表現しています。

なお恨めしき あさぼらけかな

「なお恨めしき」は、「なお恨めしい」といった意味で、まだ夜が明けていないことに対しての強い悔しさや恨みを表現しています。

「あさぼらけかな」は、「朝ぼらけだなあ」といった意味で、夜明けを迎えることへの期待や願いが込められています。

作者が夜が明けないことを知りながらも、その瞬間を待ち望んでおり、夜明けを迎えることへの悔しさや期待を表現しています。夜明けが待ち遠しく、その切なさが感じられる歌となっています。

053. 歎きつつ ひとりぬる夜の 明くる間は いかに久しき ものとかは知る

  1. 歎きつつ ひとりぬる夜の 明くる間は
    • 「歎きつつ」は、「嘆きながら」といった意味で、作者が深い悲しみや嘆きの中にいることを示しています。
    • 「ひとりぬる夜の」は、「一人ぼっちの夜の」といった意味で、孤独な夜を表現しています。
    • 「明くる間は」は、「明ける時が来るまで」といった意味で、未来の訪れを待つ様子を示しています。
  2. いかに久しき ものとかは知る
    • 「いかに久しき」は、「どれほど長い間」といった意味で、作者が感じている孤独な夜の長さを表現しています。
    • 「ものとかは知る」は、「ものとは知っている」といった意味で、作者が孤独な夜が長いことを自覚していることを示しています。

作者が一人ぼっちの夜を過ごしながら、未来の明ける時を待ち望んでいる様子が描かれています。孤独と時間の長さに対する作者の感情が、歌の中に表現されています。

054. 忘れじの行末までは難ければ 今日をかぎりの命ともがな

忘れじの行末までは難ければ

「忘れじの」は、「忘れないでいる」といった意味で、作者が何かを忘れないという強い決意や覚悟を示しています。

「行末までは難ければ」は、「最後の最後まで難しいならば」といった意味で、作者が忘れないことが最後まで難しい状況にあることを述べています。

今日をかぎりの命ともがな

「今日をかぎりの」は、「今日が最後の」といった意味で、今日を命の最後の日と捉えています。

「命ともがな」は、「命もがな」ともがなくなるといった意味で、作者が今日が最後の日であることに対する受け入れや覚悟を示しています。

作者が何かを忘れずに最後まで思い続けることが難しい状況にある中で、今日が最後の日であることを悟り、その瞬間に対する覚悟が表現されています。感傷的で命の限りを感じさせる歌となっています。

055. 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど 名こそ流れて なほ聞えけれ

  1. 滝の音は 絶えて久しく なりぬれど
    • 「滝の音は」は、「滝の音」という自然の音を指します。
    • 「絶えて久しく なりぬれど」は、「絶えて久しい間になっているが」といった意味で、滝の音がしばらく絶えてしまったことを表現しています。
  2. 名こそ流れて なほ聞えけれ
    • 「名こそ流れて」は、「名前(音)は流れて」といった意味で、滝の音の名前や存在が水の流れとともに遠くまで流れていったことを示しています。
    • 「なほ聞えけれ」は、「なお聞こえている」といった意味で、滝の音が遠くになってもその名前や存在は今もなお聞こえていると表現されています。

滝の音が絶えてしまったが、その名前や存在はなお遠くに流れているという情景が描かれています。作者は滝の音の名前が永遠に残り続けることに思いを馳せ、その音の美しさや重みを表現しています。

056. あらざらむ この世のほかの 思ひ出に 今ひとたびの 逢ふこともがな

  1. あらざらむ この世のほかの 思ひ出に
    • 「あらざらむ」は、「あるまいか」とも解釈され、「あるだろうか」といった意味で、作者が疑問や希望を表現しています。
    • 「この世のほかの」は、「この世の外の」といった意味で、他の世界や次の世界を指します。
    • 「思ひ出に」は、「思い出として」といった意味で、他の世界に思い出されることを示しています。
  2. 今ひとたびの 逢ふこともがな
    • 「今ひとたびの」は、「今一度の」といった意味で、再びの出会いを期待しています。
    • 「逢ふこともがな」は、「逢うこともないだろうか」といった意味で、再会の可能性に対する疑問や願望が込められています。

作者がこの世の外での再会や思い出されることを願い、もう一度だけでも逢いたいという切なる思いを表現しています。相手との再会への希望と、不確かな未来への期待が感じられる歌です。

057. 巡りあひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

巡りあひて 見しやそれとも

「巡りあひて」は、「巡り会って」といった意味で、作者が誰かと出会った瞬間を指しています。

「見しやそれとも」は、「見たのか、それとも」といった意味で、出会った瞬間が確かなものなのか、それともただの夢かを問いかけています。

わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな

「わかぬ間に」は、「気づかないうちに」といった意味で、何かが起きるのがあっけなく、気づかずに過ぎ去る瞬間を表現しています。

「雲がくれにし」は、「雲が隠した」といった意味で、月が雲に覆われて見えなくなったことを描写しています。

「夜半の月かな」は、「夜半の月だな」といった意味で、月が夜の空に輝いている様子を示しています。

作者が誰かとの出会いが夢であるのか、現実なのかを疑問に思いながらも、それがあっけなく過ぎ去ってしまった瞬間を表現しています。月が雲に隠れてしまったように、一瞬の美しい瞬間が消えてしまったことへの切なさが感じられます。

058. 有馬山 猪名のささ原 風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

有馬山 猪名のささ原

「有馬山」は、有馬の山を指します。有馬は現在の兵庫県にある地域で、温泉地として知られています。

「猪名のささ原」は、猪名の笹原を指します。猪名は地名で、美しい自然が広がっている場所を表現しています。

風吹けば いでそよ人を 忘れやはする

「風吹けば」は、「風が吹けば」といった意味で、風の吹く瞬間を表現しています。

「いでそよ人を」は、「いで立つ人を」といった意味で、風になびく人の姿を描写しています。

「忘れやはする」は、「忘れようとする」といった意味で、風に吹かれることで人の心が物事を忘れようとしている様子を示しています。

有馬山や猪名のささ原で風が吹く光景を通じて、風に吹かれた人が物事を忘れようとする心情が描かれています。風景や自然の中で感じる人間の感慨や心の動きが、和歌に詠まれています。

059. やすらはで 寝なましものを 小夜更けて 傾くまでの 月を見しかな

やすらはで 寝なましものを

「やすらはで」は、「安らかに」といった意味で、作者が静かで安らかな状態にあることを示しています。

「寝なましもの」は、「寝ながらの者」といった意味で、寝入りそうな状態のことを指しています。

小夜更けて 傾くまでの 月を見しかな

「小夜更けて」は、「夜も更けて」といった意味で、夜が深まった時を表現しています。

「傾くまでの」は、「傾くまでの間に」といった意味で、ある時間帯までの間隔を示しています。

「月を見しかな」は、「月を見ることしかない」といった意味で、作者が寝入りそうな状態から目を覚まし、月を見ることになったことを表現しています。

作者が安らかな夜の中で眠りに入ろうとしているが、夜が深まり、目を覚まして月を見ることになった様子が描かれています。月の美しさや夜の静寂が、和歌によって表現されています。

060. 大江山 いく野の道の 遠ければ まだふみも 見ず天の橋立

大江山 いく野の道の 遠ければ

「大江山」は、特定の地名を指す可能性がありますが、具体的な場所は明確ではありません。

「いく野の道の 遠ければ」は、「いくつもの野の道が遠いならば」といった意味で、遠く離れた場所に行くことを表現しています。

まだふみも 見ず天の橋立

「まだふみも」は、「まだ足跡も」といった意味で、まだその地に足を踏み入れたことがない状態を示しています。

「見ず天の橋立」は、「見ずして天の橋立を」といった意味で、まだ目にしたことのない、遠い天の橋立を想像しています。

作者が大江山からいくつもの野の道が遠くに広がっている様子を描きながら、まだ足跡もつけていない状態で、遠くに広がる天の橋立を見ずにいることを表現しています。未知の場所への想いや、遠い未来への期待が感じられます。

061. いにしへの 奈良の都の 八重桜 今日九重に 匂ひぬるかな

いにしへの 奈良の都の 八重桜

「いにしへの」は、「古の」といった意味で、昔のことを指しています。

「奈良の都の」は、奈良の都、すなわち奈良時代に都となった奈良を指します。

「八重桜」は、八重に重なった桜の花を指しています。八重桜は美しい花が重なり、豪華な様子を表現します。

今日九重に 匂ひぬるかな

「今日九重に」は、「今日、九つに重なって」といった意味で、桜の花が重なり九層に広がる美しい様子を表現しています。

「匂ひぬるかな」は、「香り立つだろうか」といった意味で、桜の花が美しい香りを放っていることを示しています。

昔の奈良の都で美しい八重桜が今日も美しい香りを放ち、その様子が九層に重なっていることを描写しています。この和歌は、桜の美しさや香りに感動し、それが歴史を超えて今も変わらず美しい様子で広がっていることを讃えています。

062. 夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも 世に逢坂の 関はゆるさじ

夜をこめて 鳥のそら音は はかるとも

「夜をこめて」は、「夜に包まれて」といった意味で、夜の静寂を表現しています。

「鳥のそら音は」は、「鳥の空の音」といった意味で、夜空に鳥が飛ぶ音を指します。

「はかるとも」は、「量ることもできない」といった意味で、夜空に響く鳥の音は計り知れないほど微細であることを表現しています。

世に逢坂の 関はゆるさじ

「世に」は、「世の中に」といった意味で、広く一般の世界を指します。

「逢坂の関はゆるさじ」は、「逢坂の関は緩むことなく」といった意味で、逢坂の関は決して緩まないことを示しています。

夜の静けさの中で飛ぶ鳥の音は計り知れなく微細である一方で、逢坂の関は世の中において絶えず厳かで緩まない存在であるという比喩が込められています。逢坂の関は、物事の厳粛な姿勢や崇高な価値を象徴しています。

063. 今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを 人づてならで 言ふよしもがな

今はただ 思ひ絶えなむ とばかりを

「今はただ」は、「今はただ」といった意味で、現在の状況や心情を表しています。

「思ひ絶えなむ」は、「思い絶えるまい」といった意味で、思いが断たれないようにとの願いを込めています。

「とばかりを」は、「と思ってばかり」といった意味で、作者の感情や思いが続いていることを示しています。

人づてならで 言ふよしもがな

「人づてならで」は、「他人を通じてなら」といった意味で、自分ではなく他人を通じて言葉が伝わることを表しています。

「言ふよしもがな」は、「言うようなこともない」といった意味で、作者の心情や思いが他人に伝わらないようにとの謙遜が込められています。

作者は今もなお思いが断たれないようにとの想いを抱きつつ、自分の感情や思いを直接言葉にすることは難しいと感じています。他人を通じて思いを伝える難しさや複雑な心情が表現されています。

064. 朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに あらはれわたる 瀬々の網代木

朝ぼらけ 宇治の川霧 たえだえに

「朝ぼらけ」は、「朝が明ける頃」といった意味で、新しい日の始まりを示しています。

「宇治の川霧」は、「宇治川の霧」といった意味で、宇治川に立ち昇る霧が描かれています。

「たえだえに」は、「絶え間なく」といった意味で、霧が絶え間なく立ち昇っている様子を表現しています。

あらはれわたる 瀬々の網代木

「あらはれわたる」は、「明らかに渡る」といった意味で、霧が晴れて川を渡る光景が描かれています。

「瀬々の網代木」は、「瀬々(せせ)の網代木」といった意味で、宇治川の瀬々にかかる網代木(漁の仕掛け)を指します。

新しい日が始まり、宇治川に立ち昇る霧が絶えず、その中を瀬々の網代木が明らかに渡る様子が描かれています。霧と光景が交錯する美しい風景と、新しい一日の始まりを感じさせる和歌となっています。

065. 恨みわび ほさぬ袖だに あるものを 恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

恨みわび ほさぬ袖だに あるものを

「恨みわび」は、「恨みを慰める」といった意味で、過去の恨みや悔いを癒そうとする気持ちを表しています。

「ほさぬ袖だに」は、「乾かぬ袖に」といった意味で、まだ涙で湿った袖を指します。

「あるものを」は、「あるものを」といった意味で、特定のものや存在があることを指します。

恋に朽ちなむ 名こそ惜しけれ

「恋に朽ちなむ」は、「恋に朽ちるまい」といった意味で、恋愛において朽ち果てることを表現しています。

「名こそ惜しけれ」は、「名前こそ惜しい」といった意味で、その存在や名前が非常に惜しいと感じていることを示しています。

過去の恨みや悔いを慰めようとするが、まだ涙で湿った袖があり、恋において朽ち果てることを避けたいと願いつつ、その存在や名前が非常に惜しいと感じている様子が描かれています。恋と過去の出来事との葛藤が表現された和歌です。

066. もろともに あはれと思へ 山桜 花よりほかに 知る人もなし

もろともに あはれと思へ 山桜

「もろともに」は、「共に」といった意味で、他のものや人と一緒に。

「あはれと思へ」は、「哀れと感じる」といった意味で、山桜の美しさに感傷的な思いを抱くことを表現しています。

「山桜」は、山に咲く桜の花を指しています。

花よりほかに 知る人もなし

「花よりほかに」は、「花以外に」といった意味で、他の何ものよりも。

「知る人もなし」は、「知る人もいない」といった意味で、その美しさを理解し共感する人がいないことを示しています。

山に咲く桜の美しさに心を打たれ、その美しさを理解し共感する人が他にいないことを感じています。作者の孤独な美の感受性が表れた和歌です。

067. 春の夜の 夢ばかりなる 手枕に かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

春の夜の 夢ばかりなる 手枕に

「春の夜」は、「春の夜」といった意味で、春の夜の情緒を表現しています。

「夢ばかりなる」は、「夢ばかりである」といった意味で、作者が夜になっても夢に心を奪われていることを示しています。

「手枕に」は、「手を枕にして」といった意味で、作者が寝る際に手を枕にしている状況を描写しています。

かひなく立たむ 名こそ惜しけれ

「かひなく立たむ」は、「立ち上がることもできず」といった意味で、夢に夢中で床に起き上がることができないことを表現しています。

「名こそ惜しけれ」は、「名前こそ惜しい」といった意味で、夢の中で逢った人の名前が非常に惜しいと感じていることを示しています。

春の夜に夢に心を奪われ、夢の中で逢った人の名前が非常に惜しいと感じられています。作者の夢幻的で切ない心情が表現された和歌です。

068. 心にも あらでうき世に ながらへば 恋しかるべき 夜半の月かな

心にも あらでうき世に ながらへば

「心にも あらで」は、「心にも在らず」といった意味で、心にもない状態を表現しています。

「うき世に ながらへば」は、「浮世に生き続けるならば」といった意味で、この浮世(現実の世界)で生きていくことを指しています。

恋しかるべき 夜半の月かな

「恋しかるべき」は、「恋しく思うべき」といった意味で、寂しさや切なさを表現しています。

「夜半の月かな」は、「夜半の月かな」といった意味で、夜半の月の美しさや寂しさを描いています。

作者が心にもない世界で生きる覚悟を決めつつも、恋しさや寂しさを感じながら夜半の月を仰ぐ様子が表現されています。月はしばしば切ない思いや寂しさと結びつけられ、その美しさが作者の心情を表現しています。

069. あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の にしきなりけり

あらし吹く 三室の山の もみぢ葉は

「あらし吹く」は、「嵐が吹く」といった意味で、風が強く吹く状況を描写しています。

「三室の山」は、「三つの室の山」といった意味で、特定の山々を指しています。

「もみぢ葉は」は、「紅葉の葉は」といった意味で、紅葉した葉を表現しています。

龍田の川の にしきなりけり

「龍田の川」は、「龍田川」といった意味で、特定の川を指しています。

「にしきなりけり」は、「錦なりけり」といった意味で、錦のように美しいという表現です。

嵐が吹き荒れ、紅葉した葉が美しい山々に舞い散っている様子を描写しています。特に、「にしきなりけり」は、紅葉がまるで錦のように美しい光景であることを強調しています。風と紅葉との調和が、作者の感受性や美意識を表現した和歌です。

070. 寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば いづこも おなじ秋の夕暮

寂しさに 宿を立ち出でて ながむれば

「寂しさに」は、「寂しさを感じながら」といった意味で、作者の心情や感情が寂しさに包まれていることを表現しています。

「宿を立ち出でて」は、「宿を出て立ち去って」といった意味で、寂しさから逃れるために宿を出る様子を描写しています。

いづこも おなじ秋の夕暮

「いづこも」は、「どこも」といった意味で、どこに行っても同じ。

「おなじ秋の夕暮」は、「同じ秋の夕暮れ」といった意味で、どこに行っても秋の夕暮れが同じであることを表現しています。

作者が寂しさに包まれながらも、どこに行っても同じように秋の夕暮れが広がっていることを感じています。この和歌は、作者の寂しさと秋の風景との対比を通じて、孤独や哀愁を表現しています。

071. 夕されば 門田の稲葉 おとづれて 芦のまろやに 秋風ぞ吹く

夕されば 門田の稲葉 おとづれて

「夕されば」は、「夕方になると」といった意味で、夕方の時間帯を表現しています。

「門田の稲葉」は、特定の地名や風景を指しており、門田という場所の稲葉(いなば=稲穂)の様子を描写しています。

「おとづれて」は、「訪れて」といった意味で、その風景が作者のもとに訪れている様子を表しています。

芦のまろやに 秋風ぞ吹く

「芦のまろや」は、「芦の茂る田畑」といった意味で、風景の一部を指しています。

「秋風ぞ吹く」は、「秋の風が吹く」といった意味で、この風景が秋の訪れを感じさせることを表現しています。

夕方になり門田の稲葉が美しく広がり、芦の茂る田畑に秋風が吹いている風景が作者のもとに訪れる様子を描写しています。秋の風情とともに、田畑の穏やかな風景が和歌によって表現されています。

072. 音にきく 高師の浜の あだ波は かけじや袖の 濡れもこそすれ

音にきく 高師の浜の あだ波は

「音にきく」は、「音が聞こえる」といった意味で、高師の浜で潮の音が聞こえていることを表現しています。

「高師の浜」は、特定の地名で、古くから文学や歌に詠まれる風光明媚な場所として知られています。

「あだ波」は、「浜辺に打ち寄せる波」を指し、その音を表現しています。

かけじや袖の 濡れもこそすれ

「かけじや」は、「袖を濡らすなかれ」といった意味で、濡れないようにとの心情が込められています。

「袖の濡れもこそすれ」は、「袖が濡れることもよろしく」といった意味で、袖が濡れることである種の清涼感や情緒を感じることを表現しています。

高師の浜で潮の音を聞きながら、袖が濡れることを心地よく感じる様子が描かれています。この和歌は、風光明媚な自然と調和した情景、そして繊細な感受性が表現されています。

073. 高砂の 尾の上の桜 咲きにけり 外山の霞 たたずもあらなむ

高砂の 尾の上の桜 咲きにけり

「高砂の」は、「高砂の」という地名や風景を指しています。

「尾の上の桜」は、「尾の上に咲く桜」といった意味で、特定の場所で美しい桜が咲いている様子を描写しています。

外山の霞 たたずもあらなむ

「外山の霞」は、「遠くの山々の霞」といった意味で、遠くの山が霞んでいる様子を表現しています。

「たたずもあらなむ」は、「立ち止まってしまうのではないか」といった意味で、その美しい風景に見とれてしまうのではないかとの心情を込めています。

高砂の地で美しい桜が咲き誇り、その背後に遠くの山々が霞む風景が描かれています。作者はその美しい風景に見とれ、心が立ち止まるのではないかという情景を表現しています。美しい自然とその一瞬の感動が和歌によって表現されています。

074. うかりける 人を初瀬の 山おろしよ はげしかれとは 祈らぬものを

うかりける 人を初瀬の 山おろしよ

「うかりける」は、「酔いどれている」といった意味で、舞い上がっている状態を表現しています。

「初瀬の山おろしよ」は、「初瀬の山の風よ」といった意味で、初瀬の地で吹く風を呼びかけています。

はげしかれとは 祈らぬものを

「はげしかれとは」は、「激しく吹き荒れることを」といった意味で、風に対する祈りや願望を表現しています。

「祈らぬものを」は、「祈りたくないものを」といった意味で、作者が風に対して祈りを捧げないことを示しています。

作者が初瀬の地で舞い上がるような風にさらされ、その風が激しく吹き荒れることを祈っていないことが表現されています。作者は風景や自然と一体化し、その中で穏やかな心を保っている様子を描写しています。

075. 契りおきし させもが露を 命にて あはれ今年の 秋も去ぬめり

契りおきし させもが露を

「契りおきし」は、「約束を交わしていた」といった意味で、過去に結ばれた約束や誓いを指しています。

「させもが露」は、「させる者の露」といった意味で、作者が交わした約束や誓いによって生じた露(涙)を指しています。

命にて あはれ今年の 秋も去ぬめり

「命にて」は、「生涯を通じて」といった意味で、作者が一生のうちに。

「あはれ今年の 秋も去ぬめり」は、「ああ、今年の秋も過ぎ去ってしまった」といった意味で、季節の移り変わりと、それに対する作者の感慨を表現しています。

作者がかつての約束や誓いによって生じた涙を、一生を通じて胸に抱えつつ、今年の秋も過ぎ去ってしまったことに対する哀愁や感傷が表現されています。涙に秋の象徴が結びつき、季節と感情が交錯する和歌となっています。

076. わたの原 漕ぎ出でて見れば 久かたの 雲ゐにまがふ 沖つ白波

わたの原 漕ぎ出でて見れば 久方の

「わたの原」は、「わたの原」または「渡の原」とも読まれ、地名や風景を指しています。具体的な場所は不明ですが、美しい原野や海を連想させます。

「漕ぎ出でて見れば」は、「船を漕いで出て見ると」といった意味で、作者が船から眺める光景を描写しています。

「久方の」は、「久しぶりの」といった意味で、久しぶりに訪れる風景を表現しています。

雲ゐにまがふ 沖つ白波

「雲ゐにまがふ」は、「雲が生ずる」といった意味で、雲が波のように広がりつつある様子を描写しています。

「沖つ白波」は、「沖に立ち上る白い波」といった意味で、遠くの海に白い波が立ち昇っている光景を表現しています。

作者が久しぶりに訪れたわたの原から船で眺めると、遠くの海に広がる雲が波のように立ち上る様子を感じ、美しい海の風景に心が引き寄せられる様子が描かれています。風光明媚で荘厳な自然が和歌によって表現されています。

077. 瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の

「瀬をはやみ」は、「急流の水」といった意味で、川の激しい流れを描写しています。

「岩にせかるる」は、「岩に迫る」といった意味で、急流が岩を迫るように流れている様子を表現しています。

「滝川の」は、「滝の川」といった意味で、滝が流れる川を指しています。

われても末に 逢はむとぞ思ふ

「われても」は、「分かれても」といった意味で、作者がどこかへ旅立つことを示しています。

「末に 逢はむとぞ思ふ」は、「最後には逢えるだろうと思う」といった意味で、別れても最終的には再会することを作者が期待していることを表現しています。

作者が急流の水と岩に迫られる滝川の美しい風景を背景に、どこかへ旅立つことになっても最終的には再会することを心の中で期待している様子が描かれています。自然の美と人の別れと再会を結びつけた和歌です。

078. 淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に 幾夜ねざめぬ 須磨の関守

淡路島 通ふ千鳥の 鳴く声に

「淡路島」は、淡路島のことを指します。淡路島は鳥の多さで知られています。

「通ふ千鳥の 鳴く声」は、淡路島を通る千鳥の鳴き声を描写しています。千鳥は渡り鳥であり、春になると鳴きながら北方から南方へ渡ります。

幾夜ねざめぬ 須磨の関守

「幾夜ねざめぬ」は、「何夜も眠れず」といった意味で、作者が何夜も寝られないほど千鳥の鳴き声に惹かれていることを示しています。

「須磨の関守」は、須磨の関の番人や守り手を指します。須磨の関は、古くからの交通の要所であり、番人が渡し船を管理していたことから、ここでは船守を指す場合もあります。

作者が淡路島で千鳥の鳴き声に何夜も夜を徹して耳を傾け、その美しい鳴き声に惹かれている様子が描かれています。この和歌は、春の訪れと共に渡り鳥が鳴く風景から生まれる感動と、自然への深い共感を表現しています。

079. 秋風に たなびく雲の 絶え間より もれ出づる月の 影のさやけさ

秋風に たなびく雲の 絶え間より

「秋風に」は、秋の風を指します。

「たなびく雲の 絶え間より」は、「たなびく雲の間を絶え間なく」といった意味で、風に揺れる雲の様子を描写しています。

もれ出づる月の 影のさやけさ

「もれ出づる月」は、「もれ出る月」といった意味で、雲の隙間から覗く月を指します。

「影のさやけさ」は、「影の澄み渡る様子」といった意味で、月の光が雲の間を抜けて差し込むことで、その影が鮮やかに映り出すさまを表現しています。

秋の風に揺れる雲の間から差し込む月の光が、澄み渡った美しい影を作り出す光景を詠っています。この和歌は、自然の美と儚さを感じさせる抒情性豊かな表現が特徴です。

080. ながからむ 心も知らず 黒髪の 乱れて今朝は ものをこそ思へ

ながからむ 心も知らず 黒髪の

「ながからむ」は、「長い間」といった意味で、長い間続いている様子を表現しています。

「心も知らず」は、「心も知らずに」といった意味で、作者自身もその気持ちや想いに気づいていないという表現です。

「黒髪の」は、「黒い髪の」といった意味で、詠まれている人物が黒い髪を持っていることを示します。

乱れて今朝は ものをこそ思へ

「乱れて」は、「乱れている」といった意味で、黒髪が乱れている様子を描写しています。

「今朝は」は、「今朝は」といった意味で、詠まれている瞬間が朝であることを示しています。

「ものをこそ思へ」は、「ものを思え」といった意味で、作者が黒髪が乱れた姿に触発され、その人を思いながら感じる思いを表現しています。

作者が長い間気づかなかった恋心が、朝の光に照らされて黒髪が乱れた姿に現れ、その瞬間に気づくという情緒豊かな描写がされています。

081. ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば ただ有明の 月ぞのこれる

ほととぎす 鳴きつる方を 眺むれば

「ほととぎす」は、鳥の一種で、秋の季節になると鳴くことで知られています。

「鳴きつる方を 眺むれば」は、「鳴く方角を眺めると」といった意味で、作者がほととぎすの鳴く方向を見つめている様子を描写しています。

ただ有明の 月ぞのこれる

「ただ有明の」は、「ただ有明の(明るい)」といった意味で、有明の月は夜明け前の明るい月を指します。

「月ぞのこれる」は、「月が昇る」といった意味で、夜明け前にほととぎすの鳴き声とともに月が昇る光景を表現しています。

作者がほととぎすの鳴き声に心を奪われ、その方向を見つめるうちに夜明け前に明るい月が昇る光景を感じています。この和歌は、秋の美しい自然の中での一瞬の情景を詠んでおり、その静謐な雰囲気が魅力です。

082. 思ひわび さても命は あるものを 憂きに堪へぬは 涙なりけり

思ひわび さても命は あるものを

「思ひわび」は、「思い悩み」といった感情を指します。

「さても命は あるものを」は、「それでも命はあるものを」といった意味で、悩み苦しむ中でも生命は続いていることを表現しています。

憂きに堪へぬは 涙なりけり

「憂きに堪へぬは」は、「悲しみに耐えられないのは」といった意味で、作者が抱える悲しみや苦しみを示しています。

「涙なりけり」は、「涙となっている」といった意味で、その悲しみが涙となり表れていることを表現しています。

作者が悩み苦しみながらも、生命は続いている現実に対して悲しみの涙を流している様子が描かれています。感情豊かで深い哀愁が漂う和歌となっています。

083. 世の中よ 道こそなけれ 思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

世の中よ 道こそなけれ

「世の中よ」は、「この世の中よ」といった意味で、一般の世の中に対する感慨や詠嘆が表れています。

「道こそなけれ」は、「道がない」といった意味で、作者が人生や人間関係において正しい進むべき道がないと感じていることを示しています。

思ひ入る 山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる

「思ひ入る」は、「思い入る」といった意味で、作者が深い感慨や思いにふけっていることを表現しています。

「山の奥にも 鹿ぞ鳴くなる」は、「山の奥でも鹿が鳴く」といった意味で、人がなかなか足を踏み入れない山の奥にも自然の美や生命が存在することを描写しています。

作者が世の中において正しい進むべき道が見当たらず、その思いに入り込んでいる中で、山の奥にも美しさや生命が存在することに気づいている様子が表現されています。

084. ながらへば またこの頃や しのばれむ 憂しと見し世ぞ 今は恋しき

ながらへば またこの頃や しのばれむ

「ながらへば」は、「長らえば」や「ずっと経つと」などと訳され、時間が経つことを表しています。

「またこの頃や しのばれむ」は、「またこの頃になると思い出されるだろうか」といった意味で、作者が昔のことを回顧しています。

憂しと見し世ぞ 今は恋しき

「憂しと見し世ぞ」は、「憂しと見た世の中が」といった意味で、かつて悲しいと感じた世の中を指します。

「今は恋しき」は、「今は懐かしく思い慕わしい」といった意味で、かつての世の中が今は恋しいと感じていることを表現しています。

作者が過去の悲しい出来事や時代を振り返りながら、その時代が今は懐かしく思い慕わしいと感じている様子が描かれています。過去の出来事や感情が時とともに新たな意味を持つことを表現しています。

085. 夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで ねやのひまさへ つれなかりけり

夜もすがら もの思ふ頃は 明けやらで

「夜もすがら」は、「夜が明けるまで」といった意味で、作者が夜通し物思いに耽っている様子を表現しています。

「もの思ふ頃は」は、「物思いする頃は」といった意味で、作者が深い思いにふけっている時期を指しています。

「明けやらで」は、「明けそうだ」といった意味で、夜が明けることを示唆しています。

ねやのひまさへ つれなかりけり

「ねやのひまさへ」は、「寝夜(夜中)の間も」といった意味で、作者が物思いに耽りながら夜を過ごすことを表現しています。

「つれなかりけり」は、「寂しかった」といった意味で、作者が寂しく感じていることを示しています。

作者が深夜になおも物思いにふけり、その寂しさを感じながら夜が明けそうな時刻になっていることが描かれています。物思いにふける中での孤独や寂しさが表現されています。

086. なげけとて 月やはものを 思はする かこち顔なる わが涙かな

なげけとて 月やはものを 思はする

「なげけとて」は、「嘆けども」といった意味で、作者が嘆き悲しむ様子を表現しています。

「月やはものを 思はする」は、「月もまた物を思わせる」といった意味で、作者が月を見て何かを思い起こすという感情を表現しています。

かこち顔なる わが涙かな

「かこち顔なる」は、「いかにも優美で美しい」といった意味で、作者の涙が美しい様子を表しています。

「わが涙かな」は、「私の涙だな」といった意味で、作者が自らの涙に注目しています。

作者が月を見て何かしらの感慨に耽り、その様子を美しく表現しています。また、優美で美しいとされる自分の涙に対しても、悲しみや嘆きの中にあることが窺えます。月の美しさと涙の優美さが結びつき、感情豊かな表現となっています。

087. むらさめの 露もまだひぬ まきの葉に 霧立のぼる 秋の夕暮

むらさめの 露もまだひぬ

「むらさめ」は、早朝に見られる露や霜のことを指します。ここでは秋の朝の風景を表現しています。

「露もまだひぬ」は、「露もまだ降りつもりがない」といった意味で、まだ秋の朝露が降りていないことを示しています。

まきの葉に 霧立のぼる 秋の夕暮

「まきの葉に」は、「まきの葉の上に」といった意味で、露が降りていない葉の上に霧が立ち上る様子を描いています。

「霧立のぼる 秋の夕暮」は、「霧が立ち上りつつる 秋の夕暮れ」といった意味で、秋の夕暮れに霧が漂っている情景を表現しています。

作者が秋の朝の風景を描いています。まだ露が降りていない葉に霧が立ち上り、静かで穏やかな秋の夕暮れの様子が表現されています。露や霜、霧といった季節感が豊かに描かれています。

088. 難波江の 芦のかりねの 一夜ゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき

難波江の 芦のかりねの

「難波江」は、大阪市の地名で、古くは難波と呼ばれていました。ここでは難波の川や江のことを指します。

「芦のかりね」は、「芦の葦の実」といった意味で、芦の穂についた実を指します。この実は種子のようで、風に乗って遠くへ散ることから、遠くの思い人に思いを託すシンボルとして使われています。

一夜ゆゑ 身をつくしてや 恋ひわたるべき

「一夜ゆゑ」は、「一夜のために」といった意味で、短い時間だけでも恋人に逢いたいという切なる思いを表現しています。

「身をつくしてや」は、「身を尽くしてもいい」といった意味で、どんな苦労や困難も厭わない覚悟を示しています。

「恋ひわたるべき」は、「恋を果たすべきだ」といった意味で、その覚悟で一夜を過ごすことで、恋が成就することを願っています。

作者が難波の川辺で芦の実を見ながら、思い人との逢瀬を切望している様子を表現しています。短い一夜でも、身を尽くして思いを寄せることで、遠くの恋人に対する愛情を深めようとしています。

089. 玉の緒よ 絶なば絶えね ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする

玉の緒よ 絶なば絶えね

「玉の緒」は、玉のように美しい女性の緒(帯や糸)を指します。ここでは愛する女性への深い思いを表現しています。

「絶なば絶えね」は、「断ち切れば断ち切れるものではない」といった意味で、深い絆や愛情が絶えず続いていることを示しています。

ながらへば 忍ぶることの よわりもぞする

「ながらへば」は、「長らえば」といった意味で、時間が経つほどに。

「忍ぶることの よわりもぞする」は、「忍ぶことの弱さも感じる」といった意味で、時間が経つほどに我慢することの難しさや辛さを感じることを表現しています。

作者が美しい女性に対する深い愛情とその愛情を忍ぶ苦しさを歌っています。玉のように美しい緒が断ち切れないように、作者の思いもなかなか断ち切れずに続いていることを歌っています。忍耐強く愛を育むことの難しさと深さが表現されています。

090. 見せばやな 雄島のあまの 袖だにも 濡れにぞ濡れし 色は変らず

見せばやな 雄島のあまの 袖だにも

「見せばやな」は、「もし見せるならば」といった意味で、興味深い状況についての仮定を示しています。

「雄島(おしま)」は、讃岐地方にある島のことで、あまの袖に関連して、地元の女性の美しさが詠まれることがあります。

濡れにぞ濡れし 色は変らず

「濡れにぞ濡れし」は、「十分に濡らされた」といった意味で、袖がしっかりと濡れている様子を表現しています。

「色は変らず」は、「その色は変わらない」といった意味で、濡れた袖でもその美しさや色あいが変わらないことを強調しています。

作者が雄島のあまの袖を見て、その濡れた袖の美しさが色あい変わらずに変わらないことに感嘆しています。この和歌は、自然の美と女性の美を結びつけ、その美しさの持続性を称賛していると解釈できます。

091. きりぎりす 鳴くや霜夜の さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

きりぎりす 鳴くや霜夜の

「きりぎりす」は、秋の夜に鳴く蛍光虫の一種で、秋の季節の象徴とされています。

「霜夜」は、霜が降りるような寒い夜のことを指します。

さむしろに 衣かたしき ひとりかも寝む

「さむしろ」は、寒しろ(寒い床)で、作者が一人で寝る場所を指します。

「衣かたしき」は、薄着や軽い着物のことで、季節的には夏から秋にかけての衣装を表しています。

「ひとりかも寝む」は、「一人で寝るだろう」という作者の心情を表現しています。

きりぎりすの鳴き声が聞こえる寒い秋の夜に、作者が一人で薄着で寝ることを歌っています。きりぎりすの鳴き声が寂寥感や孤独感を増幅させ、寒さを感じるなかで作者の心情が表現されています。

092. わが袖は 潮干にみえぬ 沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

わが袖は 潮干にみえぬ

「潮干」は、潮の干満のことで、潮が引いている状態を指します。

「わが袖」は、作者の袖を指しており、袖には感情や心情を象徴的に表現する要素が含まれています。

沖の石の 人こそ知らね 乾く間もなし

「沖の石」は、海の中にある石を指し、孤独で人目に触れない場所を象徴しています。

「人こそ知らね」は、「人は知らないだろう」という作者の思いを表しています。

「乾く間もなし」は、「袖が乾く暇もない」という表現で、作者の袖が潮干に濡れていることを示しています。

作者は孤独な場所で潮に濡れた袖を持ちながら、その袖を他人に知られることなく、乾くこともないままでいることを歌っています。袖の濡れは、感情の表れや孤独感を象徴しており、作者の内面を静かに表現しています。

093. 世の中は 常にもがもな 渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

世の中は 常にもがもな

「世の中は」は、世の中全般や人生を指しています。

「常にもがもな」は、世の中が常に移り変わり、安定しないことを表しています。”もがもな”は流れの速い潮流を指します。

渚こぐ あまの小舟の 綱手かなしも

「渚こぐ」は、浜辺をこぐ小舟を指しています。

「あまの小舟」は、天照大神(あまてらすおおみかみ)の舟を象徴しています。

「綱手かなしも」は、綱手(つなて)が寂しみを感じていることを表現しています。綱手は、神話や伝説に登場する女神の一つで、天照大神の孫であり、海の神様とされています。

作者は世の中の移り変わりや不安定さを、「あまの小舟」やその綱手と結びつけて表現しています。綱手の寂しみは、人生のさまざまな波乱や別れを象徴しており、生命の流れと不安定さを感じさせる歌となっています。

094. みよし野の 山の秋風 小夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり

みよし野の 山の秋風

「みよし野」は、古代の地名で、美しい野原や風景を指します。

「山の秋風」は、その地域の山に吹く秋の風を表現しています。

小夜ふけて ふるさと寒く 衣うつなり

「小夜ふけて」は、夜が更けていくことを指し、夜が深まっていく様子を表現しています。

「ふるさと寒く」は、ふるさとが寒さに包まれていることを描写しています。

「衣うつなり」は、「衣(ころも)がうつ」のであることを示しており、夜が進むにつれて冷え込んでくることを示唆しています。

作者は美しい野原の秋風と、夜が深まるにつれてふるさとが寒くなり、衣を身に纏って寒さをしのいでいる情景を詠んでいます。この歌は、自然の中での静かな季節感や寂寥感を感じさせるものとなっています。

095. おほけなく うき世の 民に おほふかな わが立つ杣に 墨染の袖

おほけなく うき世の 民に おほふかな

「おほけなく」は、「おおけなく」で、「尊いことなく、軽薄であるさま」を表します。

「うき世の 民に」は、「浮世(うきよ)の民」すなわち、世俗の人々を指しています。

「おほふかな」は、「おおぶりだな」とも解釈され、作者が自らを戒める言葉とも受け取れます。

わが立つ杣に 墨染の袖

「わが立つ杣」は、作者自身が立つ枯れた樹のことで、枯れていることが示唆されています。

「墨染の袖」は、墨で染めた袖を指し、その袖が作者のものであることを示しています。

作者は自らの生きざまを謙虚に表現しています。世俗の中での尊いことなく、浮世の中で軽薄に生きている自らを、立つ杣と墨染の袖の比喩を使って描いています。袖の墨染は、俗世間の汚れや無常を意味し、作者の内省的な心情が表れています。

096. 花さそふ あらしの庭の 雪ならで ふりゆくものは 我が身なりけり

花さそふ あらしの庭の 雪ならで

「花さそふ」は、「花を誘う」という意味で、春の訪れを示唆しています。

「あらしの庭の 雪ならで」は、「あらしの庭に降り積もる雪」という寒さや厳しさを表現しています。

この部分では、春の花が咲くべき季節にもかかわらず、庭には未だ冷たい雪が積もっている様子を描いています。

ふりゆくものは 我が身なりけり

「ふりゆくものは」は、「降りゆくものは」とも読まれ、雪が降り積もる様子を表現しています。

「我が身なりけり」は、「我が身である」という意味で、作者が自らの身を指しています。

作者は春の訪れを期待している中で、まだ庭には雪が積もっていることを嘆きながら、降り積もる雪と自身の身体を通して、季節の移り変わりと人生のはかなさを表現しています。

097. 来ぬ人を まつほの浦の 夕なぎに 焼くや 藻塩の 身もこがれつつ

来ぬ人を

「来ぬ人」は、「来ない人」や「まだ来ない人」という意味で、作者が待ち望んでいる相手を指しています。

まつほの浦の 夕なぎに

「まつほの浦」は、「松帆の浦」とも読まれ、舞台とされる場所です。ここでは、待ち人が来るであろう浦の風景が描かれています。

「夕なぎに」は、「夕方の風に」という意味で、夕方の穏やかな風が舞台になる瞬間を表現しています。

焼くや 藻塩の 身もこがれつつ

「焼くや」は、「焼くように」や「焼くのだろうか」という意味で、作者の心情や感情を表現しています。

「藻塩(もしお)」は、塩にまぶされた干し海藻を指します。ここでは、作者が焼けつつあるような心情を、藻塩になぞらえて表現しています。

作者は待ち望んでいる人がまだ来ず、その孤独な心情を夕方の風景と共に表現しています。焼けるような思いを抱きながら、海辺で待ち続けている様子が描かれています。

098. 風そよぐ ならの小川の 夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける

風そよぐ ならの小川の

「風そよぐ」は、「風がそよぐ」や「風のそよぎがする」という意味で、自然の中での穏やかな様子を描写しています。

「ならの小川」は、「奈良の小川」を指し、奈良時代の古都奈良の風景を思わせます。小川は清流で、和歌においては自然美や静謐な雰囲気を象徴する場所として使われることがあります。

夕暮は みそぎぞ夏の しるしなりける

「夕暮」は、「夕暮れ」や「夕方」という意味で、自然の中で日が傾く時間を指しています。

「みそぎ」は、「見初め」や「初めて見る」という意味で、夕暮れ時の風景が夏の特徴であることを表現しています。

「夏の しるしなりける」は、「夏の証しとなっている」という表現で、この風景が夏の特有のものであることを示唆しています。

風がそよぐ奈良の小川で夕暮れが訪れ、その風景が夏の特徴として初めて見られる様子を詠っています。作者は夕暮れの美しい自然を感じ、その中に夏の到来を感じ入っている様子が伝わってきます。

099. 人も惜し 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

人も惜し 人も恨めし

「人も惜し」は、「他人も惜しい」という意味で、他人の死や苦しみが心に迫ることを表現しています。

「人も恨めし」は、「他人も恨ましい」という意味で、他人が抱える運命や苦悩に対して同情や嫉妬といった複雑な感情が生まれることを示唆しています。

あぢきなく 世を思ふゆゑに

「あぢきなく」は、「あだなく」や「むなしく」といった表現で、世の中の無常やはかなさを指しています。

「世を思ふゆゑに」は、「世の中を思うために」という意味で、人々が世の中の出来事や人生の喜びや苦しみを考えることが必然的であることを表しています。

もの思ふ身は

「もの思ふ身は」は、「物思いをする身は」という表現で、作者自身が世の中や他人の運命に対して深く感じ、思索していることを示しています。

他人の死や苦しみ、また世の中のはかなさや無常さに対して、作者が感じる複雑な思いが表現されています。世の中の喜びと苦しみ、人々の運命に対する作者の共感と深い感慨が詠まれています。

100. 百敷や 古き軒端の しのぶにも なほあまりある 昔なりけり

百敷や 古き軒端の しのぶにも

「百敷(ももしき)」は、百重に重ねた敷物や畳を指します。この言葉は贅沢な暮らしや格式高い場所を表しています。

「古き軒端の しのぶにも」は、「古い軒端のそばで暮らす者にも」という意味で、質素で古風な場所で静かに生活している人々を指しています。

なほあまりある 昔なりけり

「なほあまりある」は、「なおも豊かである」という意味で、昔の時代がなおも豊かであり、その懐かしさや価値が残っていることを示しています。

「昔なりけり」は、「昔であった」という表現で、作者が過去の時代や生活様式に思いを馳せ、それを今になお懐かしむ気持ちを表現しています。

贅沢で格式高い生活を送る場所や人々が、古風で質素な生活様式を懐かしんでいるという趣旨が表現されています。作者は、昔の時代や環境に対する郷愁や感慨を歌に詠み込んでいます。